藤井寺市 「藤本家住宅」              

 藤井寺市は大阪府のほぼ中央に位置し、古来重要な街道が網の目のように縦横に発達してきた。市域のすぐ南を東西に走る竹之内街道、北部を東西に走る長尾街道、東部を南北に貫く東高野街道はなかでも重要な街道であった。
また藤井寺市の東と西には東除川と大乗川が流れ、南から羽曳野丘陵の続きの平坦な小高い面が、これらの川の間に張り出している。この小高い面に仲哀天皇陵、鉢山古墳、その北に葛井寺が位置している。
 葛井寺は西国第五番札所として古来多数の参詣を促し、門前には門前町「藤井寺村」が形成された。当時は巡礼宿があった。寺の南門前の集落を構成する広壮な家々は、いずれも南面し、道には家、屋敷の側面を向けたつくりとなっている。近世において藤井寺村は比較的生産力の高い田畑のある農村だった。稲作と木綿作を行っていたようである。数多くの池や用水によって灌漑をしていた。藤本家は近世には藤井寺村に住んで、庄屋を務めていた。
 藤本家住宅の敷地は葛井寺の400mほど南にある。寺の南門からまっすぐ南下する道に面して表門がある。道に面して建物の壁面と塀によって屋敷全体が囲われ、漆喰塗りの外壁にある竪格子が丁寧に組まれた連子窓から外の様子をうかがい知ることができる。門を入ってつたいの右手には竹垣に囲われて主屋の座敷の庭があり、敷地のほぼ中央に南面した主屋の正面中央に戸口を取る。
左手には茶室である離れがあり、6畳の座敷と次の間からなる。北側には離れのための前栽がある。離れに接して2階建の道具蔵が建っている。主屋の南は作業庭になっていたと思われるが、現在は植木が植えられて庭になっている。この庭を囲むように東には前当主の妻の部屋がある離れと土蔵2棟がある。庭の西側にも土蔵があり主屋から落間を隔てている。敷地西南と南には納屋が庭を取り囲んでいる。南の納屋では鶏が飼われていた。作業庭への直接の出入りのために裏門が設けられている。広い敷地にたくさんの建物が建てられているが、座敷から眺める美しく手入れの行き届いた庭と、作業のための庭が巧みに配置されている。
 主屋の戸口を入ると土間が裏庭まで通り、吹き抜けになった空間には手入れの行き届いた簀戸や松丸太の梁が見える。戸口の左手には格子がはまり、その奥はカンジョウバになっている。全体の意匠は洗練されており、農家というより町家に近い。建築当初から何度か手が加えられているようだ。当初は田の字四間取りが変形した五間取りであったが、南に広げられて二間増え、オチマとクラが付けられたと思われる。カンジョウバの東にも二つの蔵がある。土間は現在カンジョウバの奥には床を張り、ダイニングキッチンとなっている。台所が土間だった時は、イマが食事をする場所であった。
ドマに面して畳が4枚敷き詰められたキタドコから十畳の次の間があり、その奥がザシキになっている。ザシキは2間の間口に押入、床、違い棚がある。奥行は浅く裏が収納になっていて、両方で半間ほどである。天井は竿縁天井であるが、長押を廻さない素朴な作りになっている。ツギノマにも半畳の大きさの床がある。天井根太あらわしで、差し鴨居が廻る。庭側鴨居から半間の間に天袋があり、南河内の民家によく見られる特徴である。
ザシキの隣はブツマ、ヒヤがありヒヤとブツマの境に建具が入るがナカノマと交わるところに柱を立てない南河内の民家に多い作りになっている。 ヒヤの壁の半間内側に鴨居が残り、現在の間取りになる改造の時に広げられたことがわかる。
 離れには6畳が二間あり、奥の間には床と違い棚が設けられ、炉がきってある。平書院も設けられ、瀟洒な作りになっている。北側の磨きこまれた板貼りの縁側越しに庭を眺めることができ、接客空間としても上質のものとなっている。
 主屋の構造は和小屋であるが、梁が通しではなく二本になっていて登り梁で棟持ち柱に込み栓打ちになっている。部屋まわりの柱は差し物で固められている。
 構造や意匠から原型は江戸末期には存在し、明治時代に増築が何度かなされて現在の姿になったと考えられる。農家であるが、町屋の要素を多く含み、本体を損なわないで改修して現在もご家族がお住まいになっている貴重な住宅である。「造形の規範となっているもの」として、登録文化財建造物の基準に当てはまると考えられる。(石井智子)