能勢妙見山のふもと兵庫県川西市の最北に位置する黒川地区に水口家住宅がある。このあたりは江戸時代黒川村と呼ばれ、明治時代になり付近の10ケ村と合わせて東谷村となったところである。黒川村は17世紀半ばの高槻藩領となった約20年間を除き幕府直轄地として推移した。水口家では年貢として高槻藩に炭を納めていたと言い伝えられており、水口家をはじめとする黒川村や隣接する国崎村・一庫村などではクヌギを原木とする高級黒炭「一庫炭」がさかんに生産され、江戸時代からこの地方の特産品であったことがわかる。黒川地区では今も製
炭が続けられており、 水口家も10年前までは炭焼きを行っていた。
明治の初めには水口家では近くに流れる黒川に設けた水車を使って米や豆を挽き、高野豆腐の製造とともに米屋を営んでいたが戦後は配給所となり、現在は酒店を経営している。
水口家の屋敷内には、倉庫や車庫を含め合わせて9棟の建物が見られ、これらすべてが当家持山の材木により建てられている。 中でも主屋と北側の蔵、西側の井戸屋が古い。 主屋のみ茅葺で、今の当主によると先代の当主(1869年生まれ)が3歳の時に建てられたということから、今から132年前の1872年の創建と考えられる。
主屋
道路から長屋門を入ると主屋の妻側が正面に見え、西側に廻ると玄関がある。茅葺、入母屋造で四周に桟瓦の庇がまわる。 茅葺屋根南側には桟瓦葺の煙出しがある。
正面の玄関ドマから入ると前面にダイドコ8畳、クチザシキ6畳が並ぶ。背面はヘヤ6畳、オクノマ8畳となる食い違い四間取である。これは『川西市史』によると「平入り縦座敷型」と分類され、「北摂山地の古い民家を代表する型である」と記されている。 西と北側に縁側がある。オクノマは長押が周り、他は差鴨居による構造である。部屋部分は梁間方向に松丸太が架かり、土が載せられた大和天井である。サスが組まれ茅屋根が載る。 ドマ部分は桁行き方向に松丸太が架かる。20年前ドマに天井を張ったため、小屋組みは見えなくなっている。ドマの奥はイタマがあり、囲炉裏がきってあった。ドマ南側が勝手口になっておりマヤとフロが並ぶ。オクドがあったあたりが現在は床を張ってダイニングキッチンとなっている。60年前にフロ、マヤが浴室と脱衣室になった。
主屋の構造体、壁は当初のままである。外観の変更は、15から20年前に大戸を引違戸に変えるため、2本の柱の位置を変えたこと、西側の柱間装置が雨戸のみだったのを、内側に木製ガラス戸を付け加えたこと、軒の出を深くするため銅板葺庇を付け加えたことのみである。
蔵
蔵は敷地境界に積まれた石垣の上に建っている。 切妻屋根で上部は土壁になっており、下部は板張りである。水口家では主屋を建てる時すでに蔵があったと言い伝えられている。
内部の柱は檜、壁は杉板張りの蔵造りとなっている。ジュウジョウと呼ばれ、この地域で8畳が普通だった時代に10畳の広さがある。入口右横に江戸時代に用いられていた鉄砲錠の差込口がある。蔵の内外共に建築当初のままの姿を保っている。
井戸屋
水口家では主屋と同じ頃建てられたと言い伝えられている。 礎石に4本の柱が建ち、切妻瓦葺の屋根がかかる。井戸は石によって組まれている。
以上のとおり、水口家主屋は北摂地域を代表する間取りであり、ほぼ建築当初の姿を保っている。 蔵と井戸屋は当初のままである。現在、黒川地区ではすべての茅葺屋根にトタンがかぶっているが、水口家当主は茅葺を後世に残したいと考え、計画的に茅を一面ずつ葺き替え、現在の茅葺屋根を維持している。付近を通る国道からは妙見山を背景に水口家の茅葺屋根が印象的に目に入る。 これら主屋・蔵・井戸屋は、登録基準(一)「国土の景観に寄与しているもの」として価値のある建物である。(石井智子)
《参考》
『川西市史』第7巻 昭和52年 川西市史編集室 |