大道(旧)山本家住宅
 

改修前写真

 日本書紀に記録された、わが国最古の国道ともいえる「大道」は難波津から堺、太子町を通って二上山・竹内峠を越え飛鳥の都に至る。この街道を通じてすぐれた大陸文化が都にもたらされたが、このルートと大部分が重なるのが竹内街道である。中世末期には、自治都市として栄えた堺と大和を結ぶ経済の道、江戸時代には西国巡礼や伊勢詣など宗教の道としても栄えた。
 旧山本家住宅はこの竹内街道に面している。付近は江戸期には旅篭や茶店が軒を連ねていたが、現在は道しるべや伊勢灯籠などが、かつての面影を伝えている。当家は街道を挟んで孝徳天皇陵の下方に位置し、敷地は街道に沿って南に細長く開けている。玄関へは渡り廊下の壁に沿ってスロープを下ってたどり着く。
 主屋は敷地ほぼ中央に北西に面して建ち、桁行七間半、梁間五間、屋根はいわゆる大和棟の形式で、茅葺きの切妻屋根の両側を本瓦葺きとし、北東は桟瓦葺き落棟釜屋で、四週に桟瓦葺きの庇がまわる。小屋構造は扠首組、軸部は主に差鴨居が用いられている。座敷と近年改造された仏間は長押を廻し、仏間のみ竿縁天井で、他は根太天井とする。
 主屋の当初形式は前後に2室の四間取平面と考えられ、北東に土間が配される。この土間は昭和45年頃に新建材で改装されているが、改装部分を取り除けば基本的な構造は残っている。建設年代について決め手になる資料はないが、構造手法からみて江戸末期と推定される。なお、主屋に続く二間は昭和44年頃に増築されている。
 また、主屋北西に大正初年(1912)の棟札の残る離れがあり、庭をはさんで渡り廊下で主屋とつながっている。離れは入母屋造、桟瓦葺きで、八畳の座敷と六畳の次の間からなる。主屋の東には昭和27年に建てられた蔵がある。
 旧山本家住宅は改造はあるものの、大部分は当初の形式をよく残している。今回、太子町が所有し管理することとなった。付近には竹内街道に沿って十数軒の伝統的な民家が残り、周辺には他に大和棟の民家が二棟ある。旧山本家住宅はこれらと共に竹内街道の歴史的景観に寄与しており、また大和棟の民家として造形の規範ともなっている。(石井智子)